進む

自分の立っている位置を見て、
そこから歩を進められる場所を定め、
心を空っぽにしたりするときに聴く曲。


THE HUMAN BEATS / Two Shot [MORE ACTION, MORE HOPE] - YouTube


ハナレグミ&忌野清志郎 サヨナラCOLOR - YouTube


HARCO - 世界でいちばん頑張ってる君に - YouTube


『最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。』


進化論のダーヴィンさんもそう言ってた。
あなたが退化と思えること(思われること)も、実は進化だったりするのかもよ?


ロンドンに行ってた人が帰ってきて一ヶ月、先週は東京に行っていた。今は隣で寝息を立てている。


そのあいだ、僕はずっと京都にいる。
不思議だ。


関東で生まれ育った僕がずっと京都で生活してるのに、京都で生まれ育った人が色んな場所に行ってる。


良し悪しの話じゃなくて、ただただ不思議。
恋人がもう恋人じゃないのも不思議だ。
自分がもう28歳なのも不思議だ。


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大学の頃の友人がtwitterスナフキンのことばをRetweetしていた。
僕はフォローしていないからスナフキンが生活の中に現れることはめったにない。


だから、そのことばを見ていたときにふと大学生の頃の自分が蘇った。
まだ知っていることも少なくて、そのくせ根拠もない自信があったりもした頃。スナフキンみたいな世捨て人にちょっぴり憧れもあったりした。


11月までビーチサンダルで通学、アルバイトはお台場、大学は湘南、家は世田谷区。
よくよく振り返ると、普通だと思ってやっていたことも、わりと普通じゃなかったりもした。


都会に身を置いていることに心身が慣れていたあの頃。今がきらいなわけじゃなくて、むしろとっても好き。ただ、過去も好きなのだ。


その頃僕が世間に抱いていたあの感覚が、今も好きなのだ。その感覚をこれからも大事にしたい。


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もうすぐ春だ。
暦の上ではもう春なのかな、春分の日も過ぎたから。


僕は秋に誕生した。天秤座のO型。
天秤座は今年生まれ変わる一年になると、占いが言っている。春になったら出会いがあるとも言っている。それを大切にしたい、だからまずは色んなところに行ってみる。


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僕たち夫婦は、出会ったときから離れた場所にいた。すこし距離が縮まったら、今度は休日が合わなくなった。


同じ家に住むようになって、ようやく日々の暮らしのようなものが、ふたりのものになった。


ふたりの日々というものに至るまで長い時間が掛かったけれど、それも良し悪しの話ではなくて、ただわたしたちのかたちがそうだっただけ。むしろ、そうだったからここまで来たのかもしれないわけで。


そして、春からは休日もいっしょになる。
そうして色んなことが変わっていきながらも、とにかくふたりでいたらいいのだろう。


 

妻は今、ロンドンにいる。本初子午線。

 

 

僕が寝ていると、彼女が起きている。

彼女が朝ごはんを食べているときには、僕は晩ごはんを食べている。

なんか面白い、おなじ地球にいるのに。

 

 

どっちがどっちだかわからないけれど、どっちかがどっちかより未来を生きている。

 

幸いInstagramにたびたび楽しくやっていそうな風景がアップされるので、楽しくやっているのだろう。ぽつりぽつり、連絡も取っている。元気そう。

 

 

何年とは言わないがほんの十数年前までだったら、遠くに行っちゃった人の様子など知る術もないのだろう。

帰ってくる日をただただ待ち続け、帰ってきたらその楽しかった日々の話を聞くのだろう。

お父さんやお母さん、おじいちゃんやおばあちゃんは、そういうふうな恋をしたり、家族を待ったりしたのだろう。

 

 

外国は一歩も足を踏み入れたことがないので、どういう気持ちなのかわからない。

朝に出て朝に着く気持ちとか、飛行機で海を越えて国を越える気持ちとか。

 

 

妻って書き進めているけれど、妻とは呼んでいない。

他人に紹介をするとき、「妻」なのか「お嫁さん」なのか、まだはっきりしていないしどちらもむずがゆい。

 

僕は彼女のことを「まにゃん」と呼ぶけれど、まにゃんの親は「まなちゃん」と呼ぶ。

僕がまにゃんの親とおしゃべりするときは、そのときだけ「まなちゃん」と呼ぶ。

ふたりで呼び合うときに、まにゃんは「まにゃんがいい」と言う。

 

 

今日の帰り道、信号待ちをしている間に、まにゃんはどんな存在かなって想像をしてみた。

よく「君は太陽みたいだね」とか「あなたは月のような存在」とか聞くので、夜空をぼんやり眺めた。

まにゃんは星?宇宙?と思ったけれど、それより手前に信号機が見えた。

「あ、もしかしたら信号機かもしれないね」とひとりで勝手に答えを見つけて解決した。

 

 

いっそ月にいてくれたら、この目でそれを見られるのに、日本からはロンドンは見えないや。

 

 

 

大阪

今年の目標は「2月にインフルエンザにならない」なので、半分はもう目標達成です。
2月の後半も気を抜かずにしっかりと、気を確かに生きよう。


目標の達成が微かに見えてきているので嬉しいかぎり、ただもう2月です。早いなぁ。
(毎年「早いなぁ」って言いながら歳をとってく姿が目に浮かぶ…)




さてさて、




先週の火曜日、今の洋食屋では南アフリカのワインも取り扱ってるんですが、その取引先が試飲会をやるとのことだったので顔を出してきました、大阪へ。


まだ勉強を始めたばかりなので右も左も分からずだけど、本で読んだ葡萄の品種がどういう風味なのかを実際に感じられて(何種類も!)、とてもよい経験でした。本に味とか匂いとかついてないからな…


ゆっくり勉強を重ねて産地やら品種やらによって、そのワインにはどんな料理が合うのか分かるようになりたいなぁ。でも一番は、楽しむこと。





そのあと、すこしほろ酔いで万博公園に行ってきた。(3ヶ月ぶりの丸一日おデート)


モノレールに乗っていかないと着かないので、まるでお台場に行くゆりかもめみたいな気分になりながら。


本で見たことしかない太陽の塔もしっかりと見られて満足。人生で一度も見ずに終わってたかもしれない可能性は十二分にあったので、見ることのできた人生に感謝。



渋谷駅で太郎の絵を目にしたことがあって、同じ人が作ったものを遠く離れた場所でまた見るという、なんか妙な気分がした。


エキスポシティに寄ったあとはニフレルへ。開園したときからニュースで耳にしてたのでこれまた念願。ホワイトタイガーはかっこよかったけど、コビトカバのかわいさもすきだった。





帰り道に枚方のT-SITEにも立ち寄った。夏にも一度来たことがあったけど、また冬は冬でちがう趣き。


蔦屋書店ではフランス料理の基礎の本を購入してしまった、分厚いし高いし。こういうときじゃないと怖気づいて棚に戻しちゃう本。


洋食屋で日々過ごしているけれど、洋食のもとを辿ると肉々しい頃のフランス料理だそうで。性格なのかなんなのか、起源をたどりたくなるので自ずと興味も湧いてきている。


自分のお店でどんなメニューにするかはまだ置いておいて、引き出しをどんどん増やしていくことはきっと無駄にならないはずだと信じて、まだ触れたことのないことにも触れてみたいと思う。たくさん傷つくだろうけど。


ぼろぼろの28歳だけどぼちぼちの28歳よりは、ね。(すてきなお店を見つけたんだ、2月5日に。)

すん

1月が今日で終わる。実は、また一年後に1月はやってくる。

そのときにはどうなっているんだろう、いろいろなことが。

 

 

身のまわりの変化が波のように押し寄せてくる、ハッピーもすこしハッピーじゃないことも。

その波にうまく乗れたり、たまに波にのまれちゃったり。

 

 

おとなになったら一瞬で時間が過ぎていくってよく耳にするけれど、ただ身のまわりで変わっていくことの量が多いだけなのかもしれない。

こどもの頃はただ目の前にあることが、そんなに変わらなかっただけなのかもしれない。それもハッピーで、むしろそれこそハッピーなことだ。

 

 

一年前の1月と、今と、一年後の1月。

 

 

おとなになっていろいろなことを見てきて、自分がどうしたいかをついつい後に回すのも癖になったように思う。

今年は素直になろう、急にはなれないから一年かけて。

 

 

心が「すん」となるものに、囲まれて暮らせるように。

「すん」があったら一歩踏み出す勇気になる、走り出すときに地面を蹴る力にもなる。

 

カラダ

「一日の計は朝にあり 一年の計は元旦にあり」

という諺の通り、朝早く起きると一日が長々と感じられる。今日だって、そう。
(歯医者に通うようになって、休日も午前から動かなきゃいけないのもあるけれど。というか、それしかない。)



歯医者の治療は15分かそこらのが何週間も続くのだけれど、それなら一日で数時間やってくれればいいのにとも思う。
ただ、それはそれで口の中が詰め物ばっかりになるだろうし、口もとが麻酔だらけで変なことにもなりそうだし。

やっぱりニッポンの医療は最高ってことにしておこう。



治療している間は自分の口もとも見えなくて。何かが削られ、何かを埋め込まれて。
まるでどんどんと人造人間になっていくような気しかしない。

嗚呼、わたしの身体が西洋医学という遠く海の向こうからやってきた学問に侵されていく。
わたしは東洋の人間、もっと東洋な医学を施されたい。そうだ、ヨガを始めたい。おじさんになっても続けてられる、身体を動かす何かを始めたい。
(まあ、人間ってもともと人が造ったものか…とベッドに横たわりながら黙って納得して解決するのですが。アイアム人造人間。)



歯医者に通うようになったのも何かの縁、ここらで健康診断にも一度行っておこうかとも思う。内科なの?でっかい病院行かなきゃいけないの?

最後に健康診断を受けたのは、大学4年の春。忘れもしない、「貧血」による要再検査。
仕事をするようになってからは行けてないのです。ちゃんと行きたい。ちゃんと生きたい。



で、一年の計は「2月にインフルエンザにならない」。にもかかわらず、つい先週見事に胃腸炎になった。はじめての胃腸炎、あんなことになるのね。
診断されるまではインフルエンザの疑いもあって、元旦から20日で早くも計が崩れ落ちるところだった。あっぶねぇ。



さてと、今日も今日とて新たなお店のハンバーグの味を確かめに、これから行ってくるとします。わたしの胃腸の半分くらいは、ハンバーグでできている。

日々

日々。
何気なく過ぎる一日たちが続くことで、日々になる。


散歩したり、仕事したり、電車に乗ったり、手をつないだり、怒られたり、泣いたり、勉強したり、雨に降られたり、夜空を見上げたり、テレビを見たり、誰かをなくしたり、水が冷たかったり、親や子どもにひさしぶりに会ったり、誰かをお迎えに行ったり、ごはんを食べたり、お給料を貰ったり、選挙があったり、字を書いたり。


事情は人それぞれで、時代にも左右され、上の言葉のひとつひとつも、その人その人にとって異なる意味を持つ。


自分の意思で歩んでいてもそうでなくとも、日々は進む。できることをする。なるべくまっすぐな気持ちでいられたらよい。人のためになるとよい。家族は守りなさい。


この世界の片隅に』、ストーリーにはあんまり触れない。観てみてほしいから。
広島の呉は行ったことがない、広島も一度しかない。その二都市の距離感もよく知らない。


海の近くに山があり、高台からはよい景色。海のない県で育ったから懐かしさを感じるわけではない。ああいう土地で暮らしてみたいと、理由もなくそう思ったりする。
きっと海の幸は美味しい、山にも美味しいものがたくさん。ちっさな畑で野菜を育てて食べる。
山と海かそばにあるのは、呉のほかにもあるのだろう。神戸?三重?ハワイ?尾道?ねえ、ほかにある?


どんな場所でも、どんな時代でも、人は食べる。江戸時代でも、アメリカでも。料理はどこでもいつでもできる、仕事にできる頭と腕があれば尚良い。(もちろんわたしやわたしたちが生きていくために、◯から△にするときに◇を得られる方法は考えなければならない。)



おいしければ、食べてからきっと笑う。
大人も子どもも。日本人も外国人も。
(いっしょに食べれば、多少おいしくなくてもおいしく感じたりもする…笑)


包丁持って田舎から出てきたわけでもないし、東京では友だちにカセットコンロを借りて暮らしていたわけで、なんだか綺麗事ばかり並べていますが今はこんなことを考えながら生きる日々です。僕の、日々です。どこからかやってきた日々、これからどこかへ行く日々。



そして今日は妻の、妻になってから初めてのバースデーを、祝ったりする。ささやかではあるが、心から。