自分さえ良ければいい

きっと、たぶん、

これは言い方が下手なので、

予めお許しを。

 

 

題の言葉、ふつうはネガティブ。

「自分さえ良ければ」に「相手はどうだっていい」が含まれる。

近寄りたくはない。

僕もそう思う。

 

 

けれども、僕にはなぜだかこの言葉がポジティブに聞こえてしまう。

 

 

無事に生まれて無事に育って30年。

特に気にしたことはないけれど大人になる頃には、まわりの人が幸せになってくれることに喜びを感じる人間になった。

それがふつうなのか、ふつうじゃないのかは分かんない。

 

 

ただ、まわりの人が幸せになるために多少自分が犠牲になってもいいって思ってもいた。

すごく傲慢に聞こえるかもしれないけど、それは犠牲って言葉を使ってるからなのかもしれない。

単純にちょっと自分がうれしい我慢をしたらいいのであれば、喜んでそうしてた。うん、うれしい我慢。

 

 

もともと自分は何も持っていないと思っていた、もともとね。

自信がないってわけでもないんだけど、「何者でもない自分がここに存在していて、それでも滲み出てくるものが、僕の持ってるものではなかろうか?」という…

まあ何も持ってないほうが身軽でいいし、どこにだって行きやすいし、誰にだって会いやすい。

今も裸足にサンダルがいちばん好きだよ?

 

 

だから、うれしい我慢をすることも苦じゃないと思ってた。苦じゃなかったしな、むしろうれしかったんだ。

 

 

でも、最近は心境が変化してきた。

なにか気付かないけど、おっきなきっかけがあったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

些細な変化だから、この先世界のなにも変わらんだろう。

 

 

「自分さえ良ければいい」

は、

「自分さえ楽しいと思う映画なら観に行こう」

「自分さえ美味しいと思うならあの店に行こう」

「自分さえ気持ちよいならあの靴を履こう」

「自分さえ住みたい街ならあの街で住もう」

とか、そういうニュアンス。

 

 

なんだか思うんだ。

(もちろんまわりの人がハッピーなのがうれしいってのは大前提で)自分もハッピーにならにゃ、人がハッピーになったときにみんながハッピーになったことにならんなって。

 

 

よく分からんが毎日ちいさくてもハッピー探して暮らしていこうと思ってる。