みれいさん

服部みれいさんの『好きに食べたい』を読み終わった。読めど読めど終わりが見えず、やっぱりエッセイ読むの向いてないのかなとも思ったが、やっていれば終わりは必ずやってくるものである。

 

どこの街にも感じがよくて落ち着いてる、文房具や洋服から台所用品まで置いてあるお店ってあると思うのだけれど、京都にはアンジェというお店がある。

 

仕事終わりに街なかに寄らずに帰ったほうが感染症的にはいいのは知っているけれど、心のゆとりやインプットがほしくて立ち寄った。

ピンク色の表紙に目が行って、いつもはエッセイに尻込みするんだけど、導かれるようにレジへと持っていった。

 

もともとみれいさんのことは、僕が東京にいるときに知って、なんというかデジタルな仕事をしているなかでアナログな感覚を忘れたくなくて、その姿や書くものを見てた。続かなかったけど、冷えとりなんかしてみたりもした。

 

僕が京都で暮らし始めて、みれいさんも岐阜の美濃に移り住んだらしくて、でもなんだかその頃から(これは僕の勝手な偏見だったんだけど)、みれいさんが神格化されてしまったように感じて、みれいさんを好きな人がやることなすことに注目しているようなのがチョットナと思うようになり、遠くに行っちゃったなぁ…って思って時は2021年に。

 

本を読んでみたら、まあたまに出てくるナンチャラ製麺所やらナンチャラハーブ園やらの品々は僕のまわりにはないけど、やってることは結構おんなじだねって思えたよ。

「人間は食べるね、食べるものはできるだけ作りたいね」ってこととか、「身体が重くなってきたら食事を軽くしたら五感が冴えてくるよ」ってこととか。

飲食業って書くと大変そうって思われがちなのとか、料理人って言うと仰々しくなったりするのとか、肩書きのない今だけど料理をするようになって人生総じてよい方向にはなったよ。少なくとも物理的に身体は。いや、食べ過ぎてむしろ?

 

車持ったことで京都に住んでても岐阜が近くに感じることもあるんだろうね。京都も岐阜も田舎具合はそんな変わらないから、そのうち畑も持ちたいね。

 

なにかが劇的に変わるわけではないけど、釣りでルアーを放り投げて巻き取ってたらやっと自分のところに戻ってきた感じ?

 

さて、今から映画観てくるぞよ。

コーヒー飲みながらノートに「たまに書く自分だけの日記的記録(報告書?足跡確認帳?)」を書こうと思ったんだけど、こっちになっちゃったね。それもまた人生。

どんな映画なんだろね、楽しみです。

ぷかぷかしてる

わからなくはないんだけど、よくわからない日々だ。
でも自分の人生を手でちゃんと触ってるような感覚だから、それはちょっとうれしい。
手触りを感じながら過ごしたい。

2021年が始まって最初の月末に、あたらしいことに飛び込みたいと、今いる環境のひとたちに告げた。
いいひとたちなので見守ってくれている。ありがとう。
今いるところでも試みはできるでないかっていう思考もできるけど、そういう思考の人間じゃなくて申し訳ない。

日々って、ちょっと先のことを考えながらも目の前のことでいっぱいいっぱいになるのがよくあるパターンなんだろうけど、
今はちょっと先のことをぼんやり決まっているものの、目の前があやふやなのだ。

だからわからなくはないんだけど、よくわからないんだと思う。
たぶん。
舟の行き着く先はだいたい決まっているんだけど、どんな波がきてどんな潮の流れがくるのか。
そんな旅の気分。
どんな景色を見ることができるんだろうね、「景色は作っていくもんだぜ?」っていう気持ちもあるからだいじょうぶ。

野菜たちを見て

家におじいちゃんとおばあちゃんが育てた野菜がある。
そこから関東平野がはじまる、そんな感じの土地で今の季節は乾いた風がびゅうびゅう吹く。
土が付いた根っこ、枯れた葉っぱ。自分たち用の野菜たち、という感じの顔立ち。

顔を合わせて喋るということは言葉を交わすという事実以上に、
触れた手の感触とか笑ってなくなる目とか、言葉を投げたときの返ってき方とか。
なんで空気って土地によってちがうんだろう。
いいことばかりで過ごしてきたわけでもないのに、なんで故郷の空気はあんなに身体に馴染むのか。

街に住みさまざまな土地のいろいろなものを集めて、良さに光を当てるのも生き方の一つではあるけれど、
ありあまるそこにあるものたちをあれやこれやどうにか輝かせる方法を模索するほうの生き方のほうが、
心にすんっと来る気が、ベランダにある野菜たちを見て。

大事に食べます。

好き

とってもテレビっ子なのです。
家にあるのは社会人になったときに買った19型のAQUOSでそれはそれはちっさいのですが、
この夜もあの昼も僕はこの画面を観てきたのです。

映像にふれあえる機械は世の中にいくつもあるのだけれどもなんでだろう、君が好き。
よくわかんないけど惹きつけられる。

昨日は音楽のドキュメンタリーでいくつかハッとした。
きょうはNHKの「達人達」という番組でフランス料理のすごい料理人が話をしていたのを観た。
神楽坂のお店でちょうど一年前に偶然食べにいけたのだ、そのあと旧友と行ったロイヤルホストも良き想い出。

あのダンディズムはどうしたら身につくのだろうか。負けず嫌いで生意気、らしい。
でも天才ではないらしい、天才ははじめてのことでもポンっとできてしまうけれどそれはできないからロジカルに突き詰めるんだそう。


www.nhk.jp


観ていて耳が痛くなるというよりはもはや心の奥がチクっとするのだけれど、その微かな痛みは今の僕に必要な気もしてきた。
きょうもテレビ、ありがとうね。ほんとうに。

僕はテレビを作る仕事をしていたけれど、今は食べものを作る人。
君がいるから僕がいて、僕がいるから君がいるのです。
これからもよろしくね。

文章演習

ずっとほったらしてたこのブログ、そのままたまに書くだけでもいいけれど、文章演習の授業の一環みたいな気持ちで絞り出してみようと思うこの頃。ホニャララっていうタイトルも我ながら気に入っているし。
半年に一回くらい直筆で書いている日記があるんだけど、それも今年新調したので記すことはしていこうと思う。2020は状況が流れるように変化して、それに対応してたら時間過ぎちゃった。ザ・後回しだったけど、ほんと忘れちゃうから書かなきゃダメ。


NHKでキングヌーの常田大希のドキュメンタリーやっていて、なんとなしに見ている。クリエイティブに対する姿勢を「破壊と構築」というキーワードで表していて、僕も歩を進めたりするときに結構同じキーワードを使っていたのでニャンマゲと顔を見合わせた。
時代や世代がもうそんなんじゃない気がするからそうする気は毛頭ないけど、やぱり何かを生み出すには情熱と行動と最後の執念しかないねって感じ。トップオブトップはそうするね、って話。


僕が僕の店を持ってやりたいことは、「料理人たる者、料理で人をアッと言わせたい」とか「てっぺん取りたい」とかではなくて。
そういうのも結果的にしたいけれど、なんというか今直感で思っているのはいろんなものを循環させたいなってこと。

食べものを食べるってことは生きものを殺すってことだから、食べた後に循環の道を作ったり。
仕入業者とお客さんの間に立って商売することでそういう循環をしたり。
長く続けることで、僕の食べものを食べて育った子が親になって子を連れてくるようになったらいいなだったり。
ごみも循環できるものはそうしたいし、多くなってきている空き家を使うのも循環なわけで。お金も天下の回りものってことで。
そしてなにより笑顔も循環したらいいな。


きっとね、ほんとは循環するのは会社に勤めてたり雇われてたりしてもできることなんだろうけど、
なんというか正しいことよりも楽しいことをやっていたいと思ってしまう性格なので、困ったもんですね。

好きなキャッチコピーのひとつ、フレシネの「楽しいことは、つくればいいよ。」ってことです。

総括

長めの文章を書いてみようと思ってキーボードを叩いては消し、下書き保存もせずに電源を切ってしまうことが度々。ほんとうに書けなくなったな、書くことがなくなった。日々なにかしら思ってること考えてることはあるけれども。

今年はどんな年になるのかね、って考えて楽しい気分になれる世の中の雰囲気でもないけども。

昨年は引っ越したことがやっぱりいちばん大きい出来事だったかなぁ。本を読むようになったのも電車通勤になったから、クルマを買って行動パターンが変わったのもこの街で暮らしてるから。

仕事は、フランス料理のお店で丸三年。おかげさまでおかげさまな日々です。もともと洋食の方向に進みたいと思って歩み始めたのだけれども、なんだかフランス料理の方向にすーっと移ってきていて。カテゴライズしたらお客さんがわかりやすくて楽で、それはじぶんにも当てはまるから自らをカテゴライズしようとした時期もあり。最近は「自分がおいしいと思うものを作ればいいじゃないか」という感じです。
挑んで傷ついてそれが血肉になる、この繰り返し。樹木希林の娘さんが「挑戦が我慢に変わったら、逃げてもいい」ってなにかのCMで言っていて、結構ストレートに心に刺さったよ。

でも、なにはともあれ飲食業で働くことにしてよかったと思っているよ。食べることは生きること、生きることは食べること。あと寝ること。
映像の仕事も不規則ではあったから比べようもないけれど、不規則ではあれど健康にはなってきているのだ。じぶんの中であたらしい食べものを作ることには終わりがないから、この生業自体に終わりはないでしょうし。一生旅が続く感じ。

京都だったり宇治だったりにIターンしたのもよかったよ、今頃東京にいたらどんな暮らしをしていたんだろうか。結婚してふたり暮らしをしているとしたらどの街に住んでいたんだろうか、それはそれで考えると楽しいけれど。
この街は、月がきれいに見えるよ。そりゃ昔の人も歌を詠むわなって感じ。
あとオリオン座。故郷でも東京でもこっちでも、ずっと空の目印にしている星座。目印っていうかそれしかわかんないのさ。

明日のことは誰もわからないから、とりあえず今日は早く眠ろう。おやすみなさい。

涼しげな人間になりたい

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僕らしさってのが何なのか分からぬままもうすぐ32歳になるが、やりたいこと・欲しいもの・行きたいところは様々あって、そのひとつひとつが僕らしさってことになるのだろう。

僕らしさが分からない訳ではなくて、きっと心で欲する自分のイメージと、体現しているものに差があるだけなんだろう。

 

たいてい手帳はマンスリーに予定だけ書き込むのが心にしっくりくるのだけれど、今年はモレスキンの手帳を買ってみちゃったので、見開き一週間で日記を書かなくちゃならない。結構めんどくさいと思いつつ、革の手触りが好きなのでなんとか続いてる。

 

服はリネンや麻っぽいのを着たい、靴はビルケンシュトックを履きたい。めがねもちょっと変えたいかな?今のは地味。あと、僕らしい髪型とは?かばんも精査して、使わないものは売っちゃおう。

 

よくわからないね、だから楽しいね。